泉谷しげるの代表作にして名曲「春夏秋冬」。
この方、いい意味で「オッサン」というコトバがぴったりくる。
本当はたぶんすごくいい人で、まわりのことをいつも気遣って、めっちゃ空気読んだり。
でも、カッコつけたくて、素直になるのが照れくさくて、だから乱暴な言動をしてしまう。
そんな少年のような心をもった彼を、愛情をこめて「オッサン」と呼びたくなる。
前回の吉田拓郎といい、なんだか年齢を誤解されそうなチョイスが続いているけれど、ボクはまだ30代前半です。前回の曲も、1972年にリリースされたこの「春夏秋冬」も、ボクより長生きしている曲。
決してオールディーズばかり聴いているわけではないのだけれど(といってキライなわけでもないのだけれど)、このコトバドロップスでは「歌詞」にフォーカスをあてたい思いがあって。現代の曲はわりと「等身大の自分」的な曲が多いように思うのだけど、このころの「フォークソング」と呼ばれる曲はわりと、強くあろうとしていたり、立ち上がろうとしていたり。
何と言うか、メッセージ力が強いのだ。
やさしく後ろから支えてくれる、というより、力強く前に引っ張っていく。
そんなイメージの曲が多いんだ。
この曲に繰り返し出てくるフレーズも、そんな力強さがある。
今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてが報われる
今日ですべてが始まるさ
歌詞の解釈は自由だと思うし、時代によっても変わると思う。
この曲が歌われた頃の時代背景を考えれば、より「本来」の解釈に近づくことはできると思うのだけれど、今の時代にこの曲を聴いて感じることだって、それもひとつの真実といえるだろう。
ということで勝手な解釈をすると、今の時代を生きる今のボクがこの歌詞から感じるのは、生き辛い今日からの脱却、未来への希望。やや諦めを含んだ現在を否定し、明日へ望みをつなごうとする想い。
我ながら陳腐な表現だけれど、ボクはそんな風にこの歌詞が聴こえてくる。
その上で、あえて言いたい。
んなわきゃない、と。
明日から、これまでの日々を全く無視した新しい日なんて、始まるわけがない。
連綿につづく時間の中で、望む望まないにかかわらず積み重ねられたきたものから、ある日突然解放されるなんてことはありえない。転職だとか、引っ越しだとか、確かに環境が変わるタイミングというのはあるけれど、ボクらは多かれ少なかれ周りから影響を受け、影響を与えながら生きてきたわけで。その過程で作り上げられた「自分」というものは、たとえ環境が変わろうとリセットできるようなものじゃない。
だから、今を頑張る必要があるんだ。
未来に想い描くのは、そこへ辿りつくためのルートを探るためだ。
未来に希望を抱くのは、そこへ辿りつくための一歩目を踏み出すためだ。
未来が自分を変えてくれるんじゃない。
自分で未来を変えていくんだ。
何かを変えたいとき、そのきっかけを求めて、環境を変えようとする気持ちはわかるし、そのこと自体を否定する気はまったくない。でも、環境が自分を変えてくれるわけじゃなくて、環境を変えたことをきっかけに「自分で自分を変えようとする」ことが必要なんだ。
それを間違えると、結局何も変わらないんだ。
だから自分の意思を大切にしたい。
自分が踏み出す一歩一歩を大切にしたい。
過去は取り消すことはできないけれど、挽回することはできる。
なかったことに、と願うくらいなら、同じくらい強く、未来を変えてやろうという意思を抱きたい。
結局未来は、今が続いていった先にあるのだから。
と言いつつも、この曲のこのフレーズに元気づけられながら、今日を生き延びていたりします。こうやっていろんな人のコトバを借りることで、何とか自分の意思を保とうとしているボク自身は、たぶん意志の弱い人間なんだろうな、と自覚しつつ、なるべく自分を律しながら生きていこうかと。
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