羽海野チカさんのマンガ「3月のライオン」(白泉社)の1シーンより。
※タイトルにするには長すぎたような。。。
3月のライオンは、中学生でプロ棋士になった「桐山零」を主人公に、将棋の対局や学生生活などを通じて、人としての成長を生々しく描く物語。
「ハチミツとクローバー」が青春のさわやかで甘酸っぱい部分を、どこかキレイな世界観の中で描いたものだとすると、この「3月のライオン」はリアルでドロドロしていて、キレイなだけでは語れない現実の世界を切り取っている。
選び抜かれたコトバは、時に鋭利に、時に回り込んで、心に突き刺さってくる。
個人的にすごく好きなマンガ。既に取り上げたいコトバがたくさんある。
今日取り上げるコトバは、そんな桐山の通う高校の教師である林田のコトバ。
獅子王戦トーナメントの準決勝、決勝で因縁のある相手と当たる可能性にばかり気を取られ、無自覚に対戦相手を軽んじていた結果、それを見透かされた上で敗れてしまった桐山。
そんな自分を恥じ、落ち込み、なかなか立ち直れないでいる彼を見かねた林田は、さまざまな「解決策」を提示する。だが、気持ちが前を向かない桐山は、そんな林田の提案にことごとく「でも」と返してしまう。
そんな桐山に対してイライラが頂点に達してしまった林田がヒトコト。
「でも」が100個揃えば開く扉があればいーが、はっきり言って、ねーよそんなドア!!
「解決」と「解消」の違い
林田がそう言ってしまった気持ちは、個人的にはすごくよくわかる。
ボクも、つい「解決策」を示してしまうタイプだから。
ただそれがプラスに働く場合と、マイナスに働いてしまう場合がある。
後者の場合は、やはり桐山のように「でも」を繰り返されてしまい、「じゃ、どーしろっていうんだ」とボク自身がイライラしてしまう。
そんな経験を何度も経て辿りついた結論としては、「解決策」が届くかどうかは受け取る側の状態による、ということ。そして「解決策」を何度提示しても届かない人は、「解決」ではなく「解消」を求めている、ということだ。
「解消」を求めている状態というのは、言ってみれば視界が深い霧に覆われてしまっている状態。そんな中で「こういう道がある」「あぁいう道がある」なんて言っても、霧の向こう側に隠れた道に足を踏み出せるわけもなく、「でも」と足踏みをしてしまう。
だから、まずは霧を晴らすことを手伝ってあげることが必要。
多くの場合、それは話を聞いてあげることだ。
自分の気持ちを自分のコトバで表現する過程で、自分でも気づいていなかった思いに気付いたり、少し冷静に自分を見つめられるようになっていき、いつしか霧が晴れていく。
そうなって初めて、解決策に耳を傾ける準備が整うんだ。
「人の役に立ちたい」と思う人ほど、ついつい「解決策」を提示してしまいがちになるが、「解消」を求める人にはそれが逆効果になってしまうことがある。
もし「解決」しようとして反応が思わしくない場合は、一旦相手の話を聞いてみる。そんな「解消」というアプローチを身に着けておくと、実は結構使う場面が多いことに気付くだろう。
何かを変えようと一歩踏み出すのは、常に自分の足。
一方で、林田の言うこともまた正しい。
「でも」を何回重ねたところで、何かが解決されることはない。
「でも」を何回重ねたところで、何かのドアが開かれることもない。
「解消」は大事だけど、あくまで霧を晴らすだけ。
晴れた先に見えてきた道に進むためには、その障害となっているものを解決しなければいけない。
でも、その場で立ち止まってあれこれ考えているだけでは何も解決しない。
何かを解決しようと思ったら、常に「行動」が伴う。
誰かが言っていた。
「人は変えられない。自分は変えられる」と。
いろいろな人に話を聞いてアドバイスをもらったり、本を読んで勉強したりしたとしても、最後は「自分を変えよう」という本人の意志こそが、自身に変化をもたらす。
誰かが自分を変えてくれる、なんてことはない。
待っていたって、ずっと自分は自分のまま。
何かを変えたければ、自らの足を自らの意志で踏み出すべきなんだ。何かを変えたければ、自らの手で目の前の扉を開けようと頑張るべきなんだ。
なかなか開けられないかもしれない。
歩いている道で間違っていないか、不安になるかもしれない。
そんな時は素直に人に助けを求めればいい。
霧が晴れさえすれば、「解決策」を提示してくれる人は、思っている以上に多いことに気付けるはず。
「でも」を100個揃えても開かなかった扉が、「でも」と言わなくなった瞬間に、開き始めるのを感じられるはず。
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