2015年のシーズンを最後に、巨人軍の監督業に終止符を打った原辰徳元監督。12年の監督生活の中で、7度リーグ優勝し、そして3度日本一に輝くという華々しい成績を残した。
ボクは正直、特別巨人が好きというわけではないし、むしろプロ野球自体にもそこまでの興味はもっていない。ただそれでも、巨人というチームがどこよりも「常勝」を課せられたチームであることは知っている。そのチームを率いる監督という立場にかかる重圧というのは、いったいどれほどのものだったのだろうかと思う。
野球についてはテレビ観戦すらろくにしないボクにも、実は楽しみにしていたものが一つあった。それは「ほぼ日刊イトイ新聞」に2013年から毎年掲載されることになった、糸井さんと原監督の対談である。巨人ファンを公言している糸井さんの引き出し方がうまいのか、原監督のコトバの選び方が上手なのか、あるいは原監督が成し遂げてきた偉業を知っているからか、この対談はとても学びが多いし、何より読んでいて面白い。
原監督の退任に伴い、この二人の対談にも終止符が打たれることになると思うので(最後にもう1回だけやってほしいのだけれど)、今回はそれら対談の中から特に響いたコトバをピックアップしてみようかと。
「プロ野球選手の孤独」より
(2013年シーズン開幕前。対談はコチラ)
©HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
高い個人技を持った人が集まらないと、いいチームにはならない
―第2回「個人技とチームプレー。」より
個人技とチームプレーというのは、チームスポーツにおいては常に話題に上がるテーマのひとつではないだろうか。ボクの勝手な印象だけれど、特に日本においては「チームプレー」というのをあまりに重要視するがゆえに、やや「個人技」というのが軽んじられているようにすら感じられる。
だけど原監督はチームのベースはあくまで個人にあるという。チームというのは個人技の集合体であることに間違いはないから、と。高い個人技が組み合わさっていかないと、チームプレーにおいても「幼稚なプレー」になる、と。
だからチームの一員になるためには、まずはチームプレーができるという基礎技術を個人に要求する。その上で、チームとして動くことを要求するのだそうだ。
たとえば「打ち方」については、「自分はこう打ちたいんだ」という選手の要望については、思うところがあったとしても受け入れる。個人を尊重する。ただ、「ここは送りバントだ」といったチームとしての戦術に従うことだけは譲れない、というのが、原監督のスタンスだ。
これは会社組織というチームの中ではたらくボクにとっても、大切なことだと思う。1個人としての成長、進化というのは、自己責任の中でmustで行っていかなければいけないもの。めまぐるしく変化する市場の中での停滞は衰退を意味し、そんななかで誰かに「教えてもらう」のを待っていては、常に置いてけぼりになる。
だから個人技を磨くという一歩を、自分の意思で常に踏み出していかなければいけない。
ただそれは、チームとして動くことの優先順位を下げる、という意味では決してない。というかむしろ、チームとして成果を出すためにやっていることだ。だから、自分として進みたい方向があっても、チームとしてそれよりも重要なことがあるのであれば、そちらを優先すべきだと思う。どうしても進みたい方向を諦められないなら、そこは議論を重ねたり、あるいは時間を工夫してやればいいと思うけれど、まずは要求に応える、ということを忘れてはいけないと思う。
いろんなことを経験して、それを「いい経験」にしないといけない
ー第4回「礎(いしずえ)になる経験。」より
WBC日本代表の監督も経験した原監督に対して、糸井さんが「経験したこともないような、空中でもがいているようなプレッシャーの中で、監督として、支えになっていたものって、なにかありますか。 」と切れ込む。
その問いに対する原監督の答えは、高校、大学、そしてジャイアンツの4番として打席に立ち続けてきた経験があったからだ、というものだった。「そのことを思えば」ラクなものだった、という経験、礎となるような経験があったからこそ、プレッシャーに打ち勝っていくことができたのだという。
過去の蓄積が今の自分になっているのだから、自分の経験を悪くいうようなことをせず、どんな経験も、「いい経験」と捉えていくことが重要だという。
若いうちの苦労は、買ってでもしろ、と言われることがある。ボクはこれにはすごく同意なのだけれど、自分を成長させてくれたり、打たれ強くさせてくれる最大の栄養源は「経験」なんじゃないかと思うんだ。
苦労すればするほど、その経験は血肉に変わり、まさに「そのことを思えば」というような経験になってくれる。その苦労の結果が仮に形にならなかったとしても、その苦労を「経験した」という事実は、自分の中で大きな糧となってくれる。
もちろんその経験の過程で、いろいろな人に助けてもらって、それに対する感謝はしてもしきれないくらいなのだけれど。
勝ったときも負けたときと同じように、考えたほうがいい。
ー第7回「潔く反省し、勝って学べ。」より
勝負の世界というのは、ベストを尽くしても負けることがある。その時は、潔く反省して、その反省の中から次に必要なものを改めていけばいい、と原監督は言う。
一方で、「勝った時に学ぶことは少ない」と言い方をされるときがあるが、勝っても学ぶことはすごく多いんじゃないかと糸井さんが投げかけ、それに対して「勝ったら、素直に学べます」と原監督は返した。
しかし、勝ってしまったうれしさで、その学びとるべきものをスーッと通り過ぎてしまうケースがあると。
「再現性」というコトバを使う時がある。
あるいはボクは、時に「概念化」というコトバを使う。
仕事でうまくいかないことがあれば、その悔しさから、なぜうまくいかなかったのかを突き詰め、次に活かそうとするエネルギーがはたらくのだけれど、うまくいったときは「結果が出たからOK」としてしまい、それ以上思考を進めずに終わってしまうことがある。
でも仕事というのは連綿と続いていくもので、一回うまくいけばいいというものではない。そのうまくいったことを、また別の機会に「再現」しなければいけないんだ。そのときに意識したいのが「概念化」ということなのだけれど、要はその時のそのケースでしか当てはまらないような経験に留めるのではなく、「このケースはこうだったから、これがうまくいった。それはつまり、こういうときはこういう選択肢があって、その際の判断軸はこれがあって…」という形で、経験を概念化、あるいは汎用化させていく必要がある。
うまくいかなかったときというのは、消去法的に「このときこの選択肢は間違っていた」ということはわかるのだけれど「こうすればうまくいった」という正解にまでは辿り着きにくい。でも、うまくいったときというのは、少なくともひとつの正解には辿りつけたわけで、それをちゃんと蓄積していくことこそが「ノウハウ」と呼ばれるものになっていく。
勝って兜の緒を締めよ、じゃないけれど、うまくいったときこそ、その過程を洗い直して学びを得る、ということは仕事をしていく上でとてつもなく重要なことなんじゃないかと思うんだ。
本当は、全部で3年分存在する対談の中から素晴らしいコトバたちをピックアップしたかったのだけれど、この対談は学びが多すぎて、最初の2013年の対談だけでここまで長くなってしまった。やっぱり実績に裏付けされた原監督のコトバには重みがあるし、説得力がある。同時にコトバの選び方がうまい。そしてそれを引き出す糸井さんもやっぱりすごいと思う。
長くなってしまったので、一旦ここで筆を置きますが、続きが気になる方は、ぜひ「ほぼ日」の方でチェックしてみてください。
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